「それにさぁ、ナミ先生は恋愛小説書いてるじゃん? 話した内容、ネタにされるのもイヤだったしさぁ」「しないよ、そんなこと!」 私はムキになって否定した。――でも、ぶっちゃけて言えば、参考にできるものならしてみたいかも。……なんて思ってしまう作家の性(さが)が恨めしい。「分かった分かった! 冗談だよ冗談っ☆ んじゃ、あたしはここで。奈美ちゃん、またねー」「うん、お疲れさま」 ――私は由佳ちゃんと別れ、帰り道をブラブラ歩いていた。 この道には〈きよづか書店〉が入っている商店街もショッピングビルもある。――食べるものはまだ買わなくていいはずなので、帰るにもちょっと早いし、ウィンドウショッピングでもして帰ろう、と思って町を歩いていたところ――。「あれ? 奈美じゃね?」 もうずっと聞いていなかったけれど、記憶には残っているその声に、私は不意に振り返った。――この声、まさか……。「潤……なの?」 声の主は今年大学を卒業し、社会人になっているらしい(〝らしい〟というのは、学部が違っていたので別れた後は全く接点がなくなったからである)元カレの井上潤だった。 学生時代は茶髪で長かった髪は短くなり、黒っぽく染められて小ザッパリしているし、着ているのも社会人らしいグレーのフレッシャーズスーツだ。 でも、いくら外見が変わっても彼がまとうチャラい雰囲気(ふんいき)は二年前と変わっていないから、私にはすぐ分かった。「あ、やっぱ奈美だ。変わってねーな、お前は」「……変わってないのはアンタもでしょ」 今の私達は赤の他人なんだから、馴(な)れ馴れしく話しかけないでほしい。――まあ、それに反応する私も私だけど。「っていうか、なんでアンタがここにいんのよ?」 ここから私の住むマンションは目と鼻の先だ。学生時代に潤が住んでいたのはこの近くじゃなかったはずだけど……。「ああ。オレな、大学卒業(で)てから一人暮らし始めてさあ。んで、住むことになった部屋がたまたまお前んちの近くになったんだよ」「たまたま、ねえ」 本当だろうか? 私がこの町に住んでいることを覚えていたから近くの部屋に決めたとしか思えない。「就職はできたんだ? 職種は何?」 元カレとはいえ、潤がニートじゃないことには安心したので、とりあえず訊いてみる。とはいえ、職種なんて私の知ったこっちゃないけど。「営
「〝あっそ〟って何だよ。自分から訊いといて素(そ)っ気(け)ねえのな。……まあいいや。お前はまだバイト続けてんだ?」「うん……、そうだけど?」 私はまた素っ気なく返した。 どうせ潤は本を読むのが嫌いだから、ウチの書店に買いにきたことなんかないくせに。雑誌を買うくらいなら、コンビニでこと足(た)りるだろうし。「せっかく夢叶(かな)って作家になっても、収入が安定しねえなんて大変だな。――あ、本屋のバイトも非(ひ)正(せい)規(き)雇用だっけか」 私は色んな意味でムカついた。 一つ目。お父さんと同じようなことを、この男に言われたこと。 二つ目。社会に出たばっかりのヤツに、非正規雇用をバカにされたこと。 三つ目。とどのつまり、この男が私に何を言いたいのか全く分からないこと――。「まあ、営業の仕事も給料は歩合(ぶあい)制だから、あんまり安定してるとは言えねえけどな」「……それじゃ説得力ないじゃん」 自虐(じぎゃく)をまじえて肩をすくめる潤に、私は呆(あき)れてツッコんだ。「私(あたし)は後悔してないよ。確かに今は兼業じゃないと食べていけないけど、自分のやりたいことを仕事にできてるって幸せなことだからさ」 自分の作品の原稿料と印税の収入だけじゃ心(こころ)許(もと)ないからと、原口さんは時々、他の作家さんとの合作やアンソロジーの仕事も私にやらせてくれる。 それでも収入が安定しないことに変わりはないのだけれど……。「そうなん? まあオレは、お前がそれで満足してるんならいいんだけどさあ」 ――潤と話していると、何だか二年前に戻った気がする。それは決してイヤな感覚ではなく、二年前はこのユルい関係が心地(ここち)よかったりしたのだ。――そう、この男が私に、あんな選択さえ迫らなければ……。「でもお前、あの後考えたことねえ? 〝もしあの時、別の選択肢(し)を選んでたら〟って」「え…………」 この台詞(セリフ)でやっと、私は潤の言いたいことが理解できた。彼はまだ私に未練があり、そして私が小説を選んだことを納得していないのだと。「……なかった、と思う……けど」 答えてから、考える。もしあの時、小説じゃなく潤の方を選んでいたら……と。 この男は私に小説家を辞めてほしがっていた。――私は果たして、彼の望む通りに志(こころざし)半(なか)ばで筆を折ること
「それは……、今すぐには返事できないよ。私、今好きな人がいるから。担当編集者の人」「そっか。付き合ってんの、そいつと?」「ううん、まだ私の片想い……だと思うけど」 私は一体、どうして悩んでいるんだろう? 原口さんのことは、まだ片想いだから諦められると思っているから? 潤とはヒドい別れ方をしたせいで、彼に申し訳なく思っているから? でも、まだこの男に未練があるのかと自分自身に愕然となる。せっかく、原口さんへの恋を頑張ると決めたばかりなのに。こんなことで心が揺れ動くなんてどうかしている。「…………分かった。オレ、いい返事期待してっから。連絡先変わってねぇから、心決まったら連絡して」「うん……」 ――潤と別れてから、私は自分でも何をやっているんだろうと呆れた。 元カレと再会して、好きな人がいるにも関わらず復縁を迫られて、心がグラついた。片想いだからって、本気で好きなんだと気づいた相手のことをそんな簡単に諦められるわけがないのに。 潤と元サヤになったところで、今度こそうまくやっていけるとは限らないのに。また同じことの繰り返しになるだけかもしれないのに――。「…………はぁ……っ。何やってんだ、あたしは」 ため息をつきながら、マンションの近くまで来ると――。「巻田先生、お疲れさまです」「……あ」 そこには原口さんが立っていて、私に気づくと丁寧(ていねい)に挨拶してくれた。
――思えば、彼と顔を合わせるのは彼が朝帰りをしたあの日以来だ(電話では話したけれど)。しかも、元カレとの再会からの遭遇(そうぐう)だもんで、私にしてみれば気まずいことこのうえない。「今日もバイトだったんですね」「あ、はい」 なのに、彼はいつもと全く変わらない調子で話しかけてくる。私だけが気まずいのもなんかヘンだ。「……えっと、原口さんは? 今日はどうしたんですか?」 私は首を傾げてみせる。蒲生先生の件だって、あれだけ「私にも知らせて」って言ったのに。待てど暮らせど連絡をくれなかった。「あれ? 四時ごろからずっとお電話してましたけど、留守(るす)電(でん)になってたので……」「えっ、マジで!? ……わっ、ホントだ」 慌ててスマホを確かめると、『着信五件』の表示が出ている。もちろん全て原口さんのケータイからだった。 そういえば、バイトが終わってからもマナーモードを解除し忘れていた。潤と話し込んでいた時にも、何回かヴーヴー震(ふる)えていた気がする。「ゴメンなさい! ずっとマナーモードにしたままだったから、気づかなくて」 これは完全なる私の落ち度だ。だから低(てい)姿勢(しせい)に謝るしかなかった。「いつもはバイト終わったら、マンションに着くまでの間に解除してるんですけど」「ということは、今日に限って何かあったから解除できなかったんですか?」「あ……、えっと……」 原口さん、鋭(するど)い! 私は彼に何もかも見透かされている気がして、咄嗟に言い訳が思いつかない。苦し紛(まぎ)れに訊いてみる。「どうして『何かあった』って思ったんですか? ただうっかり忘れてただけって可能性もあったでしょ?」「まあ、確かにそうなんですけど。なんか冴(さ)えない表情なさってるのでそうじゃないか、と」「…………」 やっぱり私は、何かあるとすぐ顔に出てしまうらしい。これじゃ何考えてたってすぐバレるっつうの。「っていうか原口さん、〝浮かない〟の次は〝冴えない〟って! ボキャブラリー乏(とぼ)しすぎでしょ!」 私は彼の語彙(ごい)力のなさにツッコんだ。「いいでしょう、別に。僕は編集者であって作家じゃないんですから。――それより、今日先生にご連絡差し上げたのは、色々とご報告したいことがあったからなんです。蒲生先生の件も含めて」 彼は半ギレ状態でつっかかって
「先生、今からお宅におジャマしちゃダメですか? 先生に何があったかもお聞きしたいですし」「えっ!? ……ちょっ、ちょっと待って!」 それはヒジョーにマズい! 潤はこのすぐ近くに住んでいるのだ。アイツにあらぬ疑いを抱かせたくない。 「ウチはちょっと……。――あのっ! お時間まだありますよね? だったら、今から私に付き合ってもらえませんか?」 私はふと思い出した。このマンションからすぐのところに、行きつけの喫茶(きっさ)店(てん)があることを。――ちなみに近頃人気の〝カフェ〟ではなく、創業三〇年を越える昔ながらの〝喫茶店〟である。 平日の昼間には、サラリーマンやOLさん達がランチを摂(と)る穴場となるお店だけれど、今の時間なら店内も空いているだろう。「えっ!? あの――」「私もあなたに話したいことがあるんです。そこの喫茶店で甘いものでも食べながら話しません?」「は? 甘いもの?」 話がまったく呑み込めない彼の腕をガシッと掴(つか)み、私は強引に彼を連行した。「ね! 行きましょう!」「は、ハイ!?」 * * * * ――私達が入った喫茶店『デージー』は、六十歳くらいのマスターとアルバイト店員三人くらいで切り盛りしている小(こ)ぢんまりしたお店。私はどちらかというと、大手カフェチェーンよりもこういうお店の方が落ち着いてお茶やスイーツを楽しむことができる。十「いらっしゃいませー! あ、ナミ先生!」 テーブルまでお冷やを持ってきてくれたウェイトレスさんは、実は私のファン。「こんにちは。今日は連れがいるのよ」「どうも」 私が原口さんを紹介すると、ウェイトレスさん(名前は確か〝アヤちゃん〟だったと思う)が目をキラキラさせた。「えっ、ウソっ!? すごいイケメン! わ、ヤバー!」「アヤちゃん、ちゃんと仕事しないとマスターに叱(しか)られるよ」 私が苦笑いしながらたしなめると、彼女は「スミマセン!」と謝ってからウェイトレスの顔に戻った。「――ご注文は?」「チョコレートパフェ。――原口さんは?」「あ……じゃあ、チーズケーキセット。コーヒーで」 アヤちゃんはオーダーを伝票に書き留(と)めると、「かしこまりました」と頭を下げて厨房(ちゅうぼう)へと下がっていった。「――先生も今日は甘いものを食べなきゃやってられない日……だったんですか?
「いや、てっきり辛党(からとう)なのかと思ってたもんで。甘いものもお好きだったんですね」「ええ、両方好きなんです。……そんなに意外でした?」 彼があまりにも意外そうに言うので、私は不思議に思った。「だって、『甘い玉子焼きは好きじゃない』っておっしゃってたんで。甘いもの全般苦手なのかと」「それは玉子焼きの話でしょ? スイーツはまた別モノですから」 これでもうら若き女子なのだ。こういう可愛いところがあったっていいじゃないか!「そういう原口さんはもしかして……、チーズ好き?」 ふと思い当たり、今度はこっちから質問返し。原口さんがキョトン顔に。「どうしてそれを……」「間違ってたらゴメンなさい。さっきオーダーしたのもチーズケーキだったし、こないだの宅飲みの時もチーズたらを美味しそうにつまんでたから」「……分かっちゃいました?」 彼は苦笑いしながら、頬(ほほ)をポリポリ掻(か)く。「いやあ、昔からチーズには目がなくて。スイーツではチーズケーキが断(ダン)トツです」 彼の目がキラキラ輝(かがや)いている。普段のS系イヤミーのカレとのギャップに、私はキュンとなった。……この人、好きなものの話する時にはイイ表情(かお)するんだよなあ。こないだ、私の書く小説を「好きだ」って言ってくれた時もこんな顔してたんだろうな……。 ……おっと! すっかり彼に見とれて、何の話をしてたのか忘れてしまった。「――えっと。かなり話が脱線しちゃいましたけど、何の話してたんでしたっけ?」 私は何とか話の軌道修正を試(こころ)みる。「ああ、先生が冴えない表情をなさってた理由をお訊きしたかったんです」「あー……」 その結果、原口さんに遭遇する前の苦い現実に引き戻され、私は呻(うめ)いた。 でも、彼に心配をかけてしまった以上、打ち明けないわけにもいかない。――私はお冷やで唇(くちびる)と喉を潤(うるお)すと、やっとこ口を開いた。「……実はさっき、潤(じゅん)にばったり再会しちゃって。別れたっきりだから二年ぶりに」「井上さんに? ――でも〝二年ぶり〟っていうのは? 同じ大学だったんじゃ……」 首を傾げる原口さんに、「学部が違ったから、別れたら接点が皆無(かいむ)になったのだ」と説明した。 もちろん、それはウソではないけれど。私の方で極力(きょくりょく)アイツのことを避
「しかもアイツ、今ウチのマンションの近くに住んでるらしくて。『もう一度やり直さないか』って言われました。私、断りたかったのに断れなくて、何だか気持ちがモヤモヤして」「はあ」「どうしてハッキリ『イヤだ』って言えなかったんだろう、って。アイツにまだ未練があるのかどうか、自分でもよく分かんないんですよね」 原口さんは、私がどうして潤に復縁を断れなかったのか、その理由については何も詮索(せんさく)しなかった。私に興味がないのか、それとも詮索したら悪いと思ってあえて訊ねなかったのかどちらだろう? もし前者だとしたらショックだ。「――お待たせしました。チョコレートパフェと、チーズケーキセットです」 ちょっと場の空気が沈んだタイミングで、アヤちゃんが私の前にパフェを、原口さんの前にケーキのお皿と湯気(ゆげ)の立ったコーヒーカップを置き、最後にカトラリーと伝票を置いていった。パフェの甘い匂いのおかげで、私のダダ下がりだったテンションは上向きになった。「先生、とりあえずそれを召し上がって気分を変えませんか?」「そうですね、いただきます」 私は長いスプーンで、トッピングのスライスバナナをホイップクリームごとすくった。 パフェグラスには底からコーンフレーク・コーヒーゼリー・角切りケーキ・バニラアイス・チョコアイス・ホイップ・チョコアイスの順に盛り付けられ、チョコソースがかけられ、ウエハースとスライスバナナ・サクランボがトッピングされている。「ん~! バナナうま~~♡」 実は私、スイーツの中でもバナナが大好物なのだ。「あのー、先生? バナナでテンション上がってるところ申し訳ないですけど、まだ話の途中じゃありませんでしたっけ?」「……あ」 すっかり幸せ気分になっていたところに水を差され、私はまた現実を思い出した。 水を差した張本人の原口さんは、クールにコーヒーをブラックで飲んでいる。チーズケーキにはまだフォークを入れていない。「――さっきの続きですけど。今日、潤に言われたんです。『あの後、〝もしあの時に別の選択肢を選んでたら〟って考えたことはないか?』って」「……? はあ。それがつまり、あの人のおっしゃる復縁ということですか?」 原口さんは曖昧(あいまい)に相槌(あいづち)を打った。そして、潤(アイツ)nの言わんとするところに彼なりの解釈をした。「もち
「私もちょっと身勝手だったのかな、って反省しちゃいました。自分のことで精一杯で、アイツの気持ちなんか考えてる余裕なくて。――せめて、もっとキレイな別れ方ができてたらな……って」「それって……、まだ彼に未練があるってことですか? だから、復縁にハッキリと『No』が言えなかったんじゃ」 原口さんの問いに、私は首を横に振った。「違う……と思います。ただ……彼にちょっと申し訳ないなって思ってるだけです。私もオトナ気(げ)なかったのかな、って」 恋愛と作家の仕事は、両立できないこともない。まして、私は恋愛小説家である。この仕事に恋愛は切っても切れないものだ。 でも、二年前の私は作家デビューしたばかりで、大学の勉強とバイトと執筆のことでもういっぱいいっぱいで、はっきり言って潤のことにまで構(かま)っている余裕なんてなかった。 潤とやり直すのをためらっている理由は、原口さんが――好きな人がいるからだ。「それは仕方ないですよ。作家になった人なら誰でも通る道です。だから先生も、そんなに責任を感じる必要は――」「ヘンな慰(なぐさ)めならいりません。余計に惨(みじ)めになるじゃないですか……!」 彼なりの慰めの言葉を、私は遮った。SならSらしく、もっと厳しいことを言ったり罵倒してくれた方がよかったのに。中途半端な優しさは、却って傷付く。――ましてや好きな人からの慰めは。「……すみません」「いえ。私の方こそゴメンなさい。今のはただの八つ当たりです」 ……ダメダメ! 今日の私は本当にどうかしてる。潤とのことは、原口さん(この人)とは何の関係もないのに八つ当たりしちゃうなんて。「先生、とりあえずパフェ食べて気持ちを落ち着けて下さい。……溶けちゃいますよ?」「はい、……そうですね」 私は素直に頷いた。彼の優しさが、下手(ヘタ)な慰めじゃないと分かったから。「――美味(おい)しいなぁ,コレ」 サクランボの甘さで、ささくれ立っていた気持ちが少し解(ほぐ)れた気がする。「スイーツを頬張(ほおば)ってる時の先生って、可愛いですよね。〝女子〟って感じがして」「……へっ?」 原口さん、今〝可愛い〟って言った!?「なんかすごく幸せそうな顔して食べてるので、可愛いなって」「……だって女子ですもん」 思いがけない殺(ころ)し文句(もんく)にキュンとなった私は、照れ隠
「――さて、と。まだ時間も早いですけど、DVDでも観ます?」 私はソファーから立ち上がると、ミモレ丈(たけ)のデニムスカートの裾を揺らしてTVラックの所まで行き、彼に訊ねる。 今日は映画を観てきたけれど、この部屋の中での時間の潰し方は限られる。TVを観るか、DVDを観るか、仕事するか。それとも…………。「いいですけど。ちなみに、どんなジャンルですか?」「ワンパターンで申し訳ないんですけど、恋愛映画……。洋画と邦画、どっちもありますけど」 これでも恋愛小説家である。他の作家さんの恋愛小説だけでなく、時にはコミックやTVドラマ・映画などを作品の参考にすることもあるのだ。そういう意味で、恋愛映画のDVDは資料としてこの部屋には豊富に揃(そろ)っている。「じゃあ……、邦画の方で」「了解(ラジャー)☆」 私が選んだのは、〝恋愛映画のカリスマ〟と名高い若手映画監督がメガホンをとった映画。今日観て来た映画とは違う、ドラマチックな演出をすることで有名な人の作品だ。 ――でも見始めてから、この作品を選んだことを後悔した。「「わ…………」」 途中で際(きわ)どいラブシーンが流れて、何となく気まずい空気になったのは言うまでもない。 あまりにも生々しすぎるラブシーンを直視できず、TV画面から視線を逸らしてチラッと隣りを見遣れば、原口さんは瞬(まばた)きひとつせずに画面に釘付けになっていた。 ……目、大丈夫かな? ドライアイにならない? 私は彼の顔の前に手をかざして上下に動かしてみる。「お~い、起きてますかぁ?」「…………ぅわっ!? ビックリした!」 ハッと我に返った彼のガチのビックリ顔がおかしくて、私は思わず吹き出した。「ハハハ……っ! めっちゃ見入ってましたねー」「スミマセン」 お家デート中に彼女の存在そっちのけで映画に見入っちゃうなんて、なんて彼氏だ。……まあでも、面白いものが見られたからよしとしよう。「――あ、終わった。ちょっと刺激強すぎたかな……」 映画は二時間足らずで終わった。プレイヤーから出したディスクをケースに戻し、次に観る時はもう少し刺激の少ない映画にしようと思った。「お風呂のお湯、入れてこようっと。――先に入りますか?」 この調子だと、今日も彼はこの部屋に泊まっていくことになりそうなので、私はバスルームに向かいがてら彼に訊ね
「原口さんだって、もうちょっと広い部屋の方が落ち着けるでしょ? ベッドだって狭いし」「だったら、ベッドだけシングルからセミダブルに変えたらいいんじゃないですか?」 彼の提案は身もフタもない。せっかく「あなたの部屋の近くに引っ越したい」って言うつもりだったのに。「ここの寝室は狭いから、セミは置けないんです。だからどっちみち引っ越すことになるの。……まあ、狭いベッドの方が、ベッタリくっついていられるから私もいいんですけど」「そっ……、そういう意味で言ったんじゃ………」 ちょっと意味深な視線を送ると、彼は真っ赤になって慌てた。私より恋愛慣れしているわりには、結構ピュアだったりするのだ。「冗談ですって。でも、引っ越すなら赤坂の方の物件がいいな。原口さんのお部屋の近く」「え……」「その時は、お手伝いよろしく☆」「…………はい」 私の方が年下なのに、彼は腰が低いというか、立場が弱いというか……。私に何か頼まれると、「イヤです」とは言いにくいらしい。話し方だって、未だに敬語が抜けないし。 しばらく話し込んでいたら、マグカップに入っていたミルクティーはもうほとんど飲み終えつつあった。私は彼の肩にそっと頭をもたげる。「――あ、そういえば美加が、『いつ結婚式の予約入れてくれるの?』って言ってたんですけど」「美加さんって……、こないだ取材させて頂いたウェディングプランナーのお友達ですか?」
――私と原口さんが代々木のにある私のマンションに着いたのは、それから三十分後のことだった。 ちょっと空(す)いていた電車の中では、二人で隣り合って座席に座ることができた。そこで私達が話していたのは今書いている原稿の進み具合とか、「入った印税をどう使うのか」とか、そんなことだった。「――どうぞ、上がって下さい。コーヒーか何か淹れましょうか?」 私は彼に来客用スリッパを出してから、リビングのソファーにバッグを置いた。「じゃ、紅茶がいいなあ。ミルクティーで」「はーい。私の分も用意するんで、ちょっと待ってて下さいね」 ソファーに腰を下ろした彼のオーダーを聞き、私はキッチンに足を向けた。備え付けの食器棚からマグカップと紅茶のティーバッグを二つずつ出して、水をいっぱいにした電気ケトルのスイッチを押す。 カップのセッティングをしてから、「お茶うけもあった方がいいかな」と思った。――お菓子、何か入ってたっけ? あっ、確かチョコチップクッキーが残っていたはず……。「――お待たせ!」 数分後、私は二人分のミルクティーのマグカップとクッキーの載(の)ったお皿をお盆に載せ、リビングに戻った。「ありがとうございます。……あ、クッキーも? さすが先生、気が利(き)くなあ」 原口さんはお礼を言ってカップを受け取ったけれど。……ん? 「気が利く」ってどういう意味? いつもは気が利かないって遠回しに言っているのか、それとも女性らしい気配りができているっていう褒め言葉なのか……。解釈が難しいところだ。何せ、彼はS入ってるからなあ。「そんなに悩まなくても……。素直な褒め言葉ですから」 首を傾げている私に、苦笑いしながら彼はフォローを入れた。「ああ、そうなんですね。……別に、何かお茶うけがあった方がいいかなーと思っただけです」 ……本当に、私って可愛くない。褒められても素直に喜べなくて、こんな憎まれ口叩いて。「いただきます」 一人しょげている私をよそに、彼はおいしそうにミルクティーをすすり、お皿の上のクッキーをつまむ。下手に慰めようとしないのは、彼なりの優しさなのだろう。今の私には、その方がありがたい。それとも、ただマイペースなだけなのか……。「――それにしても、この部屋って狭いですよね。ぼちぼち引っ越そうかな」「えっ、引っ越すんですか?」 私も紅茶をすすりな
「ね? 可愛げないでしょ?」 私が同意を求めると、彼はそれを力いっぱい否定した。「いえいえ、そんなことないですよ! 先生はご自分で思ってるよりずっと可愛いし、魅力的な女性です」「……はあ、それはどうも」 そのあまりの熱弁ぶりに、私は目を丸くした。彼の私への想いはそんなに強いのかと、改めて気づかされる。「…………すみません、ついアツくなっちゃって。でも、先生は十分(じゅうぶん)女性としての色気はあるのに無防備すぎるんです」「えっ、どんなところが?」 私って自覚なさすぎるんだろうか? それじゃあ、付き合う前から私は気づかないうちに、彼を惑(まど)わせていたかもしれないってこと……?「ある朝原稿を受け取りに行ったら、ショートパンツ姿でナマ足出してるし。酔っ払って泊めてもらった夜には、至近距離(しきんきょり)でシャンプーのいい香りさせてるし。こっちは理性保(たも)つのが大変だったんですから」「うう……っ!」 思い当たるフシがいっぱいありすぎて、私は思わず両手で顔を覆(おお)った。当たり前だけれど、やっぱり原口さん(この人)も成人男性だったんだ。私の悩ましい姿の数々(かずかず)を目にしながら、一人悶絶(もんぜつ)していたなんて。「……手、出そうとは思わなかったんですか?」 恥を忍んで、私は訊いてみる。我慢するくらいなら、いっそ触れてくれればよかったのに。「出せるワケないでしょ? 自分の欲求に任せて手を出したら変質者とおんなじです。そんなマネ、俺はできませんっ!」 鼻息も荒く、原口さんが吠えた。そして、彼が〝俺〟って言うの、久しぶりに聞いた。 どうでもいいけど、ここは駅のホームで周りには人がいっぱいいる。さっきの原口さんのシャウトに驚いた人達が、なんだなんだとこっちを見ているので,私は今かなり恥ずかしい。「……分かりました! っていうか原口さん、声大きいから! エキサイトしすぎ!」 小声でたしなめると、彼はやっと我に返った。「はっ……!? あ……、スミマセン」 恥ずかしさで顔を赤らめ、神妙に縮こまる彼。なんだかおかしかった。私は思わずククッと笑い出してしまう。「……え? なんかおかしいですか?」「ううん、別にっ!」 そう言いながらも完全にツボった私の笑いはなかなか治まらず、私は彼のいない方を向いて声を殺して笑い続けた。彼もムッとするど
「……まあ、いいですけど。明日も仕事休みですし」 明日は日曜日。いわゆる〝会社員〟である原口さんはお休みだ。「ナミ先生は、お仕事は? 書店さんの方の」 彼は担当編集者なので、私の作家としての方の仕事はもちろん把握(はあく)している。今は、ウェディングプランナーとして働いている友達・美加をモデルにした新作の小説を執筆中だ。 でも、もう一つの仕事である〈きよづか書店〉でのバイトのスケジュールまでは訊かない。デートの約束をする時だって、私からしか話さない。「私は明日出勤日ですけど。もし私の出勤時間に起きられなかったら、原口さんは寝てていいですよ。合鍵あるんだし,戸締りだけちゃんとして帰ってくれたらいいですから」「そんなに僕に泊まってってほしいんですか? 先生って今まで、ロクな恋愛してこなかったんですね」 ……出た、久々のS発言! 別に彼にベッタリしたいわけじゃないんだけど……。「そっ……、そんなことは――」「ない」とは言い切れない。しばし自分の頭の中の引き出しをひっくり返し、私はこれまでの自分の恋愛を振り返ってみた。「……うん、確かにそうかも」 情けないことに、彼の指摘は思いっきり的(まと)を射(い)ていた。「原口さんの言う通りかも。今まで私、頑張って恋愛してきた気がするんです。『恋愛小説家なんだから、恋しなきゃ!』って。で、頑張ってロクでもない男につかまって失敗して」「あ……、当たってたんですね。悪気はなかったんです。すみません」「マズい」と思ったのか、彼は慌てて私に謝った。 悪態(あくたい)はついても、悪役にはなりきれない。そこが彼の憎めないところだ。「ううん、別に何とも思ってないですから。……まあ、十代の頃は別として、大人になってからホントに気心知れた相手と付き合ったのは原口さんが初めてかも。私って可愛げないし」 最後はもうほぼ自虐(じぎゃく)ぎみに言って、私は肩をすくめた。「僕はそんなことないと思いますけど……。〝可愛げない〟って、どんなところが?」 原口さんは首を傾げる。「だって、酒豪でしょ? 言いたいことズケズケ言うでしょ? それに甘え下手でしょ? 泣くことだってあんまりないし」 私は思い当たるフシを、指を折りながら挙げていった。酔ってしなだれかかることもない。男の人に甘えることもあまりない。モジモジもあまりしない。
原口さんと交際するようになって、彼の私生活(プライベート)も少しずつ分かってきた。彼は運転免許証を持っていないため、車の運転ができない。通勤にも私のマンションに来る時にも、公共の交通機関を利用しているらしい。 もちろん、私とデートする時にも……。でも今までだって、車を運転できるような男性と交際したことはないので、私はそんなことちっとも気にならない。 そして、彼が一人暮らしをしているマンションは赤坂(あかさか)にある。お部屋は十五階建てマンションの五階にあるけれど、エレベーター付き。 出身は前にも聞いたけれど兵庫県(ひょうごけん)の南東部。でも神戸(こうべ)じゃない。どうりでたまに関西(かんさい)弁がポロっと出るわけだ。彼は大学進学を機に上京して来て、それ以来はなるべく関西弁を使わないように、極力(きょくりょく)標準語で話すようにしていたけど、それでも生まれついたネイティブな話し方は何かの拍子につい出てしまうものらしい。
「まあ……、一応考えときます」 私自身も作家として、もっと広い世界を見てみたい。もっと幅広いジャンルにもチャレンジしてみたい。だから専属作家になろうとは思わない。……でも、まだ原口さん以外の編集者さんと組むのには不安がある。 まだ当分は、今の状態のままでいい。彼はいつも私の意志を尊重してくれるから、ムリに〝専属〟を押しつけるつもりは最初からなかったのだろう。「そうですか。まあ、最終的には先生のご意志に任せるので、ムリに『専属作家になれ』とは言いませんけど」「やっぱりね。あなたならきっとそう言うだろうと思ってました」「〝やっぱり〟って何が?」 自己完結で納得していると,すかさず原口さんからツッコミが入った。「ううん,何でもないです。――もう少ししたら、お店出ましょうか」 私達のお皿の中身は、どちらも残り少ない。コーヒーも飲み干してしまったし、あまり長居してしまうのはお店の迷惑になる。「そうですね……。じゃ、お会計は先生持ちで」「ええ~~!?」 私は形だけのブーイング。でも、これはこの人と付き合い始めてからはいつものことだ。「〝ええ~!?〟って何ですか。印税たくさん入ったんでしょ? 白々(しらじら)しいアピールはやめましょうよ」「……バレたか」 本当は最初から私がご馳走(ちそう)するつもりでいたのだ。冗談で言ったのだと、彼にはバッチリ見抜かれていた。でもこういう時、冷静に的確にツッコんでくれる。そんな彼が私は大好きだ。 ――何やかんやで私が支払いを済ませ、店を出るともう外は暗くなっている。「〝秋の日はつるべ落とし〟って言いますけど、このごろ日が暮れるの早いですねー」「ホントにね。っていうか、今どきの若い人はそんな言い回し使いませんよ。ナミ先生、さすがは作家さんですね」「……どういう意味?」 褒めているのかイヤミで言ったのか分からずに、私がキョトンとしていると。「ボキャブラリーが豊富っていう意味です」 とりあえず褒めているらしいと分かって、嬉しい反面ちょっとカチンときた。「もう! だったらストレートに褒めて下さいよ! ホンっトに素直じゃないんだから」 彼の愛情は分かりづらいから、誤解を招きやすい。でも私だけは、彼の言葉の裏側に潜む優しさをちゃんと理解してあげたいと思う。
「でも最近、自分がやっと一人前の作家になったような気がしてきてます。私自身、本の売れ行きが予想をはるかに超えててビックリしちゃって。こないだ入った印税なんか、ゼロの数が多すぎて『これ、金額間違ってるんじゃない?』って思ったくらい」 運ばれてきたハヤシライスを食べながら、私は嬉しさを隠しきれずにそう言った。この話は大げさではなく、事実である。私の銀行口座の残高(ざんだか)は今、大変なことになっているのだ。万から上のケタが四ケタってどういうこと? ……みたいな。「それだけ印税入ってくるようになったら、もう専業作家になってもいい頃なんじゃないですか? 書くことに専念して」「えっ、専業?」「はい。人気作家になったら、他の出版社さんからも執筆依頼が来るようになります。先生は原稿を手書きするので、そうなると今まで以上に執筆時間を長めに確保する必要が出てきます」「はあ……」 原口さんの言いたいことは分かる。パソコン書きの作家さんなら、いくらでも執筆時間の都合はつけられる。――少なくとも、手書きの作家よりは。「これまで通り働きながら執筆活動を続けようと思ったら、睡眠時間を削(けず)らないといけなくなります。それじゃ先生、最悪の場合は体壊しますよ」 彼氏としても編集者としても、私のことを心配してくれているのは嬉しい。でも……。「それだけ心配してくれてるのはすごくありがたいんですけど。私、バイトは続けていきたいです。友達もいるし、作家と書店員を両立する上での役得もあるし」「先生の気持ちは分からなくもないですけど。無理はしてほしくない――」「大丈夫。執筆時間は何とか都合つけて頑張りますから」 彼の思いやりには感謝したい。でも、ちょっと心配しすぎな彼の言葉を遮って、私は彼を宥(なだ)めた。「そうですか? 分かりました。――この問題の解決策(さく)が、実は一つだけあるんですけど」「解決策って?」 私は食事の手を止め、彼に首を傾げてみせる。「先生に、我が洛陽社の専属作家になってもらうこと、です」 私は〝目からウロコ〟とばかりに目を瞠った。でも、言い出した当人の原口さんはあまり気が進まないようだ。「なるほど。……でも原口さん自身は、あんまり薦(すす)めたくないみたいですね」「はあ。僕としては、〝作家という職業は自由業だ〟と思ってるんで。先生にはいろいろな出
――私(あたし)と原口さんが付き合い始めてから二ヶ月半が過ぎ、季節は秋になった。 今日は土曜日で私のバイトもお休み。というわけで、原口さんと映画デートを楽しんでいる。「――ナミ先生、映画面白(おもしろ)かったですね」 シアターから出るなり、彼はほこほこ顔で観ていた映画の感想を漏らした。「うん。あたし原作も好きなんですけど、映画はまた違う面白さがありましたよね。脚本家さんのウデかなあ」「あと、監督(かんとく)さんの、ね」 私達の会話は、傍(はた)から見れば映画評論家(ひょうろんか)同士の会話みたいに聞こえるだろうか。――まあ、当たらずとも遠からずなのだけれど。 今日私達が観てきた映画は、私も本を出させてもらっていた〈ガーネット文庫〉の先輩作家さん・岸田(きしだ)